もしそれが神様のボートなら、それはやっぱり、どこかに舫られるべきではない。
相変わらずというか、江国香織作品によくある、ちょっと変わった生活をしている人たちのお話です。
いきなりですが、この本の「あとがき」の一文です。
『小さな、しずかな物語ですが、これは狂気の物語です。
そして、いままでに私の書いたもののうち、いちばん危険な小説だと思っています』(「あとがき」より)
あとがきにこう書かれているのを目にしたら、このぼんやりしたお話の一体どこが危険なのかと勘ぐってしまうわけなのですが、読後しばらくしてから冷静になって考えてみたら、たしかに作中に漂う、漠然としながらも確実に存在する「狂気」に気が付いて、「こりゃたしかに危険かも」と思うに至るわけです。
これだけやわらかい文調で描かれる空気の中に潜む狂気。
そして江国香織が描くやわらかく優しいはずの登場人物から発せられる狂気とは「強い思い」を持っているからでしょうか。
このお話は葉子と草子なる親娘の視点で話が進むのですが,この親娘はすみかを転々としています。
娘の草子が生まれてすぐに旅立ったという「あのひと」(作中ではとくに定義されていませんが、普通に考えたら葉子の夫で、草子の父親なのでしょう)と再会するために,葉子は街を転々とします。
しかし自分からその「あのひと」を探すではなく、厄介な事にどこかに落ち着いたら,「あのひと」に会えなくなると思っているのです。
この時点でけっこうキていますね。
もし。もしもですけど、自分を探してもらいたい人がいるのだとしたら、普通ならばすみかを変えたりせず、一カ所にとどまるったり、探している相手に目立つようにする、などなど積極的に行動するものだと思いますが、葉子たちはその「約束」を守るべく引っ越しを繰り返します。
気になるのがこの、「あのひと」という人。一体どういう人なのでしょう。
背骨やくるぶしが、だとか一部の身体的なことが葉子によって語られていますが、どんな人なのか気になります。
作中で葉子が「あのひと」について話している場面はありますが、草子によると「ママはしょっちゅうでたらめを言う」そうです。
…それじゃわからん。と思うわけでして。
そして「狂気」の話ですけど、もちろん10年以上前に交わした約束をずっと信じて待っている葉子の事だと思われますが、それを素直に聞き入れる草子にもあるのではないでしょうか?
みかたを変えれば、母親に付き合わされているだけにも思えますが。
「あのひと」が必ず見つけてくれると信じつづけている葉子と「あのひと」は本当に自分たちを探しているのかと現実的な目で見て、母親離れしていく草子の姿が印象に残りました。
はたして、ここまで自分でない誰かを信じることができるでしょうか?
ちょっと考えてしまいました。でも僕はきっと真似はできません。(自分の現実では、気がついたら結婚してしまっていたりしてあまり笑えませんが…)
どんなに美しい思い出があったとしても、思い出だけで何年も何年も、ただ「待つ」だなんてできそうにありません。
待つというのが時間の流れにある「神様のボート」であったとしても、僕はちょっと遠慮したいと思ってしまいますね。
話は変わりますが、江國さんがよくやっている、一人称の交換による書き方はなかなかだと思います。
一見して楽な書き方にも見えますが、文章として読み手にわからせるのは難しいはず。
確固たるキャラクターの存在がないとここまで自然にはならないはず。
あと、この作中に「野島」なる姓の人物が出てきます。それって【ホリーガーデン】の野島果歩なのではないでしょうか。
冒頭にもあります、「舫う」という単語。これは普通に生活をしている人には読めないんじゃないでしょうか?
丁度この「神様のボート」とほぼ同時期に読んでいた池波正太郎の小説で、偶然同じ言い回しにひっかかって「?」と思っていたので、辞書を引いてみました。
舫う(もやう) : 船と船をつぎあわせる。船をつなぎとめる。
…だそうで。
この所々に散りばめられたほどほどな難解さと、しっかりとしたキャラクター作りが江国香織が近年若者にも受けているというところなのかもしれません。
かつて自分は忘れられない恋をしたという方、これからそんな生活を送ってみたいと思う方、江国香織さんがお好きな方に、おすすめです。